日高光啓のインスタグラム(skyhidaka) - 8月16日 19時07分



本当なら今年及び来年、ここでライブを行うはずだった。
本八幡での凱旋ライブだった。

中学に入り、それまですべてを捧げていたサッカーから身を引き始めた頃、特に喪失感はなかった。
補って余りある感動と興奮が毎日連なっていたからだ。

繁華街にCDショップ、レコード屋に裏路地、テレビやラジオの深夜番組。
目や耳から入って五感を支配される様な感覚は、どんなゴールよりも刺激的だった。

直感でバンドをやろう!と決めた時も、「何の楽器にしようかなー」なんて考える事もなく気がついたらスティーブガットモデルの真っ黒なスティックを買って、それからどうやってドラムが上手くなればいいか考えた。
本当に感覚以外の何も使わないで生きていた。

本八幡のスタジオで出会ったGantaさんという人は、変人であった。
ドラムを教えてくれるというので教則本を片手に150cmにも満たない体で会いに行ったら、
即座に頭の方の7ページを残して破り捨てられた(誇張かと思うであろうが結構本当なのである)。

「持ち方だけ覚えたら曲でやんべ!」
GantaさんがStingの曲のフレーズを弾きながら、何もわからないままとにかく遮二無二ドラムを叩く。

「ドラムが上手くなりたかったら俺のギターを聴け!」
が口癖であった。

会う度に宿題として渡される譜面。そこに書いてあるタイトルを頼りにTSUTAYAでCDをとにかく借りる。東京の満員電車に敷き詰められながら70年代の西海岸の雄大な景色に意識を飛ばす。

「音楽で食ってくとか考えねぇ方がいいぞ!」と何度も言われたので、食える上で好きなことやれる道は無いものかと思案するようになって、中学を卒業してから感覚に思考が着いてきだした。

身長が170cmをやっと越えてバンドからラップにテンションが移って行った後も、ドラムだけは叩き続けた。電子のドラム一式を買う為に親に借金をして音楽で食うとは対極にいた数年後、買ったドラムパッドそのものが食べられそうなくらい柔らかくなった頃、僕は実家を出で芸能を始めた。

あまりに多種多様な音楽を作り、音楽以外の仕事もするもので、たまに自分の背骨の位置を確認したくなる。
それはミックステープであったり、日記であったり、ライブハウスツアーであったりした。

あの頃の本八幡3rdステージの近辺には、いつも自分からすると年上の人達がたまっていて、入るどころか、横切るだけでもハラハラした。

まさにその頃そこでライブをしていたクリープハイプと対バンをする事も出来た。

音楽で何かしらを為した今の自分が3rdステージのステージから再度景色を見る事は、自分にとって意味のある事だった。

街はライブハウスを作り、
ライブハウスはDNAを紡いでいく訳だが、
中学時代の自分のDNAもどこかに落ちているだろう、と考えるだけでワクワクした。
こんな形で途絶えるとは。

10年後、3rdステージから出たアーティストがドームツアーを回っていたかもしれない。
シャッターの降りたシャポーの前で二人のお客さんを前に歌っていたかもしれない。
突如HIPHOPに目覚めて自分も一緒に楽曲を作ったかもしれない。
こんな形で途絶えるとは。

音楽はお腹を満たすことは出来ないけれど、心を育てる物が芸術である事もまた確かで。

経済的に緊縮する中で、心が縮まっていくことのない様にとせめて思う。

今までお疲れ様でした、ありがとうございました、またいつかお会いさせてください。


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2020/8/16

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