友利新さんのインスタグラム写真 - (友利新Instagram)「今日は慰霊の日。式典がおこなわれる平和祈念公園の中には、ソロモン諸島ブーゲンビル島で亡くなった県出身戦没者3600人の名が刻まれています。家族の高齢化で歴史を伝えることが、難しくなっています。このエッセイは今から37年前に宮古毎日新聞に連載されていた母の文章です。少しでも後の世に伝えるために、改変せず掲載いたします。遺骨収集事業や慰霊碑の清掃活動をされている方には、日々、感謝しております。沖縄とブーゲンビル島、世界の平和を祈って。  四十一年目の邂逅 「もしもし友利でございます」 「友利正太郎軍医殿の御宅でしょうか?」 「正太郎は主人の兄ですが、昭和二十年三月二十九日ブーゲンビル島で戦死致しました」 「戦死なさったのですか…」 受話器の奥で溜息が聞こえた。  この突然の電話は、爆風で耳をやられたものの、激戦地ブーゲンビル島から帰還した一兵士が、戦地での怪我の後遺症に悩みながらも、若いうちは自力で生活出来たが、年をとり働くのも思うにまかせず、戦病手当申請のため当時の軍医の証明書を必要とし、記憶を頼りに宮古島を探しあて、友利姓に片っぱしから電話をしているとの由。  その後しばらくして、当時の上官やら戦友やら、どこそこまで一緒だったとか、足を貫通されてみてもらったとか、マラリアの治療で世話になったとか、ブーゲンビルの戦況の様子やら、手紙や電話で、次々と知らされ、まるで四十一年前にタイム・スリップした感である。手塩にかけて育ててくれた父はすでに世になく、八十九歳の老人性痴呆の始まった母にはその全葉を伝える術もない。仏壇の凛々しい軍医殿の遺影は、まばたきもせず涼しい目で微笑むばかり。  片田舎の百姓の子として生まれながら志を立て、はるばる平壌医専で学び昭和十七年九月卒業後、畑を売って送金してくれた両親に親孝行する間もなく、同年十二月、軍医少尉に任官して、丸亀の連隊に入隊直後、昭和十八年一月「ソロモン第一四七兵站病院付」を拝命し、肉親の見送りも間に合わず、宇品港から潜水艦で、一路万里の波濤へと分け入ってより、二度と故郷の土を踏む事はなかったのである。  「この時代に生まれ合わせた不運の親孝行…云々」と幼い弟に書き残し玉砕覚悟の出発であった。その後、生還者の一人小泉さんから連絡があり、昭和四十一年七月から始めた「ブーゲンビル島遺骨収集団」は十数回を数え、五万有余の最後の一骨までを誓い、今年も遺族を現地に案内し御魂を連れ帰る事を目的とした、慰霊巡拝団の日程が知らされた。  福岡から香港経由で三時間マニラ着、さらに五時間パプアニューギニアのポートモレスビー着、そこからさらに一時間半ブーゲンビル島キエタに到着、以後四日間は電気・水道もないジャングル地帯に入ると国際電話が入った。  地図をたどればなんともはや遠い南太平洋の島々、いくら霊魂千里走るといえども、一人では帰れず、弟よ、早く迎えにきて欲しいとの四十一度目にして冥土の兄からのメッセージであったに違いない。  今なお戦争の残骸が残り、その上に幾千幾万の兵士達の血と肉を埋めてジャングルが茂る。ミクロネシア族原住民は、腰に蕃刀をさし焼畑農業しかせず家畜と雑居の生活という。  終焉の地プリアカ川上流湿地帯で慰霊祭を行い、霊石を拾った夜明け、はっきりと兄は弟の夢枕に顕ったという。波濤五千里彼方のジャングルの中に、今なお眠る多くの英霊達に生きている私たちがしなければならないことは一体何なのだろうか。戦争の無意味さと悲惨さ。暑い八月が今年も終る。   無風なる真夏の島の玉砕地   友利敏子 (一九八六年九月一日 宮古毎日新聞「無冠」より)」6月23日 9時34分 - aratatomori

友利新のインスタグラム(aratatomori) - 6月23日 09時34分


今日は慰霊の日。式典がおこなわれる平和祈念公園の中には、ソロモン諸島ブーゲンビル島で亡くなった県出身戦没者3600人の名が刻まれています。家族の高齢化で歴史を伝えることが、難しくなっています。このエッセイは今から37年前に宮古毎日新聞に連載されていた母の文章です。少しでも後の世に伝えるために、改変せず掲載いたします。遺骨収集事業や慰霊碑の清掃活動をされている方には、日々、感謝しております。沖縄とブーゲンビル島、世界の平和を祈って。

四十一年目の邂逅
「もしもし友利でございます」
「友利正太郎軍医殿の御宅でしょうか?」
「正太郎は主人の兄ですが、昭和二十年三月二十九日ブーゲンビル島で戦死致しました」
「戦死なさったのですか…」
受話器の奥で溜息が聞こえた。
 この突然の電話は、爆風で耳をやられたものの、激戦地ブーゲンビル島から帰還した一兵士が、戦地での怪我の後遺症に悩みながらも、若いうちは自力で生活出来たが、年をとり働くのも思うにまかせず、戦病手当申請のため当時の軍医の証明書を必要とし、記憶を頼りに宮古島を探しあて、友利姓に片っぱしから電話をしているとの由。
 その後しばらくして、当時の上官やら戦友やら、どこそこまで一緒だったとか、足を貫通されてみてもらったとか、マラリアの治療で世話になったとか、ブーゲンビルの戦況の様子やら、手紙や電話で、次々と知らされ、まるで四十一年前にタイム・スリップした感である。手塩にかけて育ててくれた父はすでに世になく、八十九歳の老人性痴呆の始まった母にはその全葉を伝える術もない。仏壇の凛々しい軍医殿の遺影は、まばたきもせず涼しい目で微笑むばかり。
 片田舎の百姓の子として生まれながら志を立て、はるばる平壌医専で学び昭和十七年九月卒業後、畑を売って送金してくれた両親に親孝行する間もなく、同年十二月、軍医少尉に任官して、丸亀の連隊に入隊直後、昭和十八年一月「ソロモン第一四七兵站病院付」を拝命し、肉親の見送りも間に合わず、宇品港から潜水艦で、一路万里の波濤へと分け入ってより、二度と故郷の土を踏む事はなかったのである。
 「この時代に生まれ合わせた不運の親孝行…云々」と幼い弟に書き残し玉砕覚悟の出発であった。その後、生還者の一人小泉さんから連絡があり、昭和四十一年七月から始めた「ブーゲンビル島遺骨収集団」は十数回を数え、五万有余の最後の一骨までを誓い、今年も遺族を現地に案内し御魂を連れ帰る事を目的とした、慰霊巡拝団の日程が知らされた。
 福岡から香港経由で三時間マニラ着、さらに五時間パプアニューギニアのポートモレスビー着、そこからさらに一時間半ブーゲンビル島キエタに到着、以後四日間は電気・水道もないジャングル地帯に入ると国際電話が入った。
 地図をたどればなんともはや遠い南太平洋の島々、いくら霊魂千里走るといえども、一人では帰れず、弟よ、早く迎えにきて欲しいとの四十一度目にして冥土の兄からのメッセージであったに違いない。
 今なお戦争の残骸が残り、その上に幾千幾万の兵士達の血と肉を埋めてジャングルが茂る。ミクロネシア族原住民は、腰に蕃刀をさし焼畑農業しかせず家畜と雑居の生活という。
 終焉の地プリアカ川上流湿地帯で慰霊祭を行い、霊石を拾った夜明け、はっきりと兄は弟の夢枕に顕ったという。波濤五千里彼方のジャングルの中に、今なお眠る多くの英霊達に生きている私たちがしなければならないことは一体何なのだろうか。戦争の無意味さと悲惨さ。暑い八月が今年も終る。

 無風なる真夏の島の玉砕地

 友利敏子
(一九八六年九月一日 宮古毎日新聞「無冠」より)


[BIHAKUEN]UVシールド(UVShield)

>> 飲む日焼け止め!「UVシールド」を購入する

1,650

19

2023/6/23

友利新を見た方におすすめの有名人